ジョン・デューイ「経験と教育」:第3章「経験の基準」

経験と教育(ジョン・デューイ)第3章「経験の基準」では、連続性と相互作用という二つの原理は、相互に分離しているものではないとのべ、連続性の原理に従って、先に起こったものから後に起こるものへと持ち越される何かがあると考えている。個人が一つの状況で知識や技能を学んだことは、それに続く状況を理解し、それを効果的に処理する道具になる。この過程は、生活と学習が続く限り進行する。そうでなければ、経験の進路は無秩序なものになる。つまり、経験をつくり出すさいに入り込む個人的要素が分裂するからである。・・十全なかたちで統合された人格は、連続的経験が相互に統合されているときのみ存在する。十分に統合された人格は、道後に関連する対象物の世界が構成されたときにおいてのみ、構築される。
この記載が「経験の基準」の大きなテーマになるだろう。そして、次に述べる「相互に能動的に結合している連続性と相互作用とが、経験の教育的意義と価値をはかる尺度を提供する。教育者の関心の的は相互作用が生じる状況であり、この状況に個人が一つの要素として入り込んでこそ、その時点ではじめて個人は具体的な自分自身であることになる。」このことは、体験学習をデザインするときにとても重要な視点だと思う。いかに学習者の内的な過程を共感をもってキャッチしながら、学び、体験の外的な環境をデザインするか、これが大切になるのでしょう。そして、経験を通して学ぶことは、遠い未来への準備のための教育ではなく、今ー明日とつながり役に立つ学びの経験であり、その結果、「形成されうる最も重要な態度は、学習を継続していこうと願う態度である。」とデューイは述べています。

下記の記述は、「経験と教育」ジョン・デューイ著、市村尚久訳(講談社学術文庫)より抜き書きしたものです。関心を持たれましたら、本書をご購入いただき、お読みください。

経験と教育(デューイ)成熟した人こそ、未来に対し有形で好ましい影響をあたえるような種類の現在の経験のための条件を、制度化する責任が負わされているのである。成長あるいは成熟としての教育は、常に現在の過程でなければならない。

経験と教育(デューイ)われわれはそれぞれ現時において、それぞれの現在の経験の十分な意味を引き出すことによって、未来において同じことをするための準備をしているのである。このことこそが、長い目で見ると、将来に帰するところの何かになるための唯一の準備にほかならないのである。

経験と教育(デューイ)もし学習の過程において、個人がほかならぬ自分自身の魂を失うならば、価値ある事物やその事物に関連する価値に対して批評する能力を失うならば、さらにまた学んだことを適用したいという願望を失うならば、とりわけこれから起こるであろう未来の経験から意味を引き出す能力を失うならば、地理や歴史について規定されている知識量を獲得したところで、また読み書きの能力を獲得したところで、それが何の役に立つというのだろうか。

経験と教育(デューイ)形成されうる最も重要な態度は、学習を継続していこうと願う態度である。

経験と教育(デューイ)あらゆる教育学的な誤りのうちで最大のものは、人はその時点で学ぶ特殊な事柄だけを学習テイルという考え方である。好きなことを持続させ、嫌いなことを耐え忍んでいく態度が形成される仕方にみられるような、付随的な学習のほうが、綴り字(スペリング)の授業や地理や歴史の授業で学習することよりもはるかに重要なものである。

経験と教育(デューイ)伝統的教育では、のちに(おそらく大学生活や成人の生活で)必要とされる一定の技能を獲得し、一定の教科を学ぶことによって、生徒は未来の必要や環境に対して準備するのは当然のことである、という仮定である。この「準備」というのは、当てにならない観念である。

経験と教育(デューイ)教育に適用される連続の原理は、教育過程それぞれの段階において、未来というものが考慮されなければならないことを意味する。

経験と教育(デューイ)生徒たちは教材を外部からの処方箋に盛られた一服量として飲み込むことが期待された。・・教材を個人の欲求と能力に適応させることができなかったことが、個人が教材に適合することができないことと全く同様に、そこでは経験を非教育的なものにしているのである。

経験と教育(デューイ)個人の欲求や能力に適応することに考慮を払わない傾向が、ある種の教科や方法が本質的に教養的であり、本質的に精神的訓練に好適であるという考え方の根拠であった。

経験と教育(デューイ)伝統的な教育の難点は、教育者が経験を創造するにさいしての他の要素、すなわち教育される者たちの能力や目的を考慮しなかったことにあった。

経験と教育(デューイ)教育者の能力とそれによって他者が獲得する教育とが、価値ある経験を創造するよう教えられた人びとが、現にもっている能力や欲求と相互作用するであろう環境を決定するのである。その決定は教育者の義務としてなされることが求められている。

経験と教育(デューイ)もう一つの要素は、「客観的条件」である。その用語には、教育者によってなされたことやそれがなされる方法やを包含し、話された言葉だけではなく、言葉が話される音声の調子をも包含する。それはまた、設備、書物、装置、玩具、遊ばれるゲームをも包含する。それは個人が相互作用する材料を包含し、またすべてのもののなかで最も重要なものとして、個人が従事させられる状況の全体的「社会的」な機構をも包含するものである。

経験と教育(デューイ)相互に能動的に結合している連続性と相互作用とが、経験の教育的意義と価値をはかる尺度を提供する。教育者の関心の的は相互作用が生じる状況であり、この状況に個人が一つの要素として入り込んでこそ、その時点ではじめて個人は具体的な自分自身であることになる。

経験と教育(デューイ)連続性と相互作用という二つの原理は、相互に分離しているものではない。連続性の原理に従って、先に起こったものから後に起こるものへと持ち越される何かがある。個人が一つの状況で知識や技能を学んだことは、それに続く状況を理解し、それを効果的に処理する道具になる。この過程は、生活と学習が続く限り進行する。そうでなければ、経験の進路は無秩序なものになる。つまり、経験をつくり出すさいに入り込む個人的要素が分裂するからである。・・十全なかたちで統合された人格は、連続的経験が相互に統合されているときのみ存在する。十分に統合された人格は、道後に関連する対象物の世界が構成されたときにおいてのみ、構築される。

経験と教育(デューイ)経験は、常に、個人とそのときの個人の環境を構成するものとの間に生じる取引的な業務であるがゆえに存在するのである。しかもその個人の環境は、ある話題や出来事についての話し相手から構成されている。

経験と教育(デューイ)個人が世界のなかで生きるという言明は、具体的には、個人が状況の連続のなかに生きていることを意味する。・・「なかに」の意味は、相互作用が個人と対象物あるいは他の人との間で進行していることを意味する。「状況」とか「相互作用」という概念は、相互に分離しては成り立たない概念である。

経験と教育(デューイ)経験というものは、経験しつつある個人の内部で進行しているものに従属させられてこそはじめて真の経験であるといってよいのである。

経験と教育(デューイ)教育される個人に内在する主観的条件に、客観的条件をかなり組織的に従属させるような教育計画を立てることは可能である。ーー外部からの統制を押しつけたり、個人の自由を制限するようなことをしないではじめて、このような客観的要因が重要性をましてくるのである。

経験と教育(デューイ)教育者は、価値ある経験の形成に寄与するにちがいないすべてのものが引き出せるようにと存在している環境ーーー慈善的、社会的なーーーをどのように利用すべきであるか、そのことを知らなければならない。

経験と教育(デューイ)教育者の基本的な責任は年少者たちが周囲の条件によって、彼らの現実の経験が形成されるという一般的な原理を知るだけではなく、さらにどのような環境が成長を導くような経験をする上で役立つかについて、具体的に認識することである。

経験と教育(デューイ)経験は真空のなかで生起するのではない。言うまでもないことである。経験を引き起こす源は、個人の外にある。

経験と教育(デューイ)要するに、われわれは生まれてから死ぬまで、人と事物の世界に生きているが、その世界の大部分はすでに為されてしまったものであるがゆえに存在しおり、また以前からの人間の活動から伝えられてきたものである。

経験と教育(デューイ)経験は、単に個人の内面だけで進行するものではない。経験は確かに、個人の内面で進行している。というのは、経験は願望や目的といった態度の形成に影響を及ぼすからである。あらゆる真の経験は、その経験がなされる客観的条件をある程度変化させるという積極的な側面をもっている。

経験と教育(デューイ)教育者は未成熟者個人を個人として共感する理解力をもたなければならない。その共感力が、学習している人々の精神のなかで実際に進行しているものについてのアイディアを、教育者に与えてくれる。このような共感する能力が、なによりも親と教師の側に求められる。

経験と教育(デューイ)不誠実な行為は、二つの方向ではたらくことになる。そのような教育者は、自分自身の過去の経験から獲得しなければならないことについてわかっていない。また、人間の経験はすべて究極において社会的であるという事実、つまりそれには触れ合いとコミュニケーションが含まれているという事実に対して誠実に対応できない。

経験と教育(デューイ)経験を動いている力として判断し、そのような力を指導するよう経験の動力を考慮しないようでは、教育者は経験の原理それ自体に誠実に対応していないことになる。

経験と教育(デューイ)経験の価値は、経験が向かっていき、そこに入り込んでいくという動きに基づいてのみ判断されうるものである。経験がどのような方向をとっているのかを知ることが、教育者の仕事になる。

経験と教育(デューイ)もし経験が好奇心を喚起し独創力を高め、未来の死の場所に人を誘うぐらいに強烈な願望や目的を創り出すならば、その経験は連続してきわめて様々な方法で働いているのである。経験というものはいずれもみな動きゆく動力なのである。

経験と教育(デューイ)成長、または、単に身体的にだけではなく、知的にも道徳的にも発達するものとしての成長することは、連続の原理の一つの例証にほかならない。・・成長は多くの異なった方向をとりうる・・強盗をするという経歴から出発し、・・高度に熟達した強盗人間に成長することだってある

経験と教育(デューイ)個人の自由や人間関係における礼節や親切を尊重するという原理は、つまるところ、これらのことがが抑制や強圧や暴力の方法によるのではなく、これらを尊重する多数者の側の経験が質的により高次なものになることに貢献するという信念に帰着している

経験と教育(デューイ)民主的な社会的取り決めは、非民主的ないし反民主的な社会生活の形態よりも、一般的に広く親しく享受されるという信念、すなわちそれは人間経験の一段とすぐれた質を増進するという信念に最終的に帰着する。

経験と教育(デューイ)もう一つの理由は、伝統的学校の教育政策にあまりにもしばしば付きまとう苛酷さにくらべて、進歩主義運動の教育方法には人間味があるということ

経験と教育(デューイ)進歩主義教育が受け容れられる理由の一つは、伝統的学校の教育手順が多分に専制的であるため、それよりも進歩主義運動のほうが、我が国民が委ねる民主主義の理念に調和しているようにみえる・・

経験と教育(デューイ)連続とか経験的連続性といったカテゴリーは、教育的に価値のある経験とそうでない経験との間を識別するためのあらゆる試みに関わりをもっている。