ラボラトリー方式の体験学習を体験してもらったり、実際に実施するためのプログラムにご参加いただくと、さまざまな質問をいただきます。そのときの記録をもとに、体験学習Q&Aのページを創りました。 (JIELサイトより移転)

体験学習の考え方について

「ラボラトリー方式の体験学習」の「ラボラトリー方式」とは、どういう意味なのでしょうか?

体験学習によるトレーニングを「ラボラトリー方式のトレーニング」とか、「ラボラトリー方式の体験学習」などとよんでいます。または、「ラボラトリー・メソッドによる体験学習」ともよばれます。
この”ラボラトリー”という言葉をそのまま訳すと”実験室”となります。それは、第三者によって操作的に人間を操ってトレーニングをするようなイメージであり,「誰かを実験にかける」,「参加者がモルモットになる」といったような響きがついてくるかもしれません。 本来の”ラボラトリー”とは「自分が自分のことをいろいろと試みる場」という意味で,あえて実験という言葉を使っているのは,実験をする主体は学習者自身であることをさしています。まったく研修/教育という新しい教育環境にやってきて,そのときその場にいる人々とのコミュニケーションやグループワークなど,今そこに生じた生の人間関係の体験を素材にして,自分が自分自身を深く見つめ直したり,他者との関係のもち方を点検したり,新しい行動様式(たとえばリーダーシップとか聴く態度など)をグループの中で試したり,グループや組織の人間関係を変革するためのシミュレーションをしたりするのです。 “ラボラトリー”は他者との関係を創り出しながら,自分自身のこと,人間関係そのものを”いまここ”の中のプロセスに気づきながら主体的に学習する場といえます。
通常の学習は,過去の誰かが獲得した知識を教育者から伝達されて,それを記憶する形式で学ぶといった「概念学習」あるいは「知的学習」とよばれます。または,文化伝承型学習とよばれたりします。
しかし,ラボラトリー方式の体験学習は,”今ここで”の自分の体験を他者と共に総合的に検討することによって学習者の変化・成長を生み出す形式なので,「体験学習」あるいは「態度学習」といわれるゆえんでもあります。
最近は,ラボラトリー方式の体験学習というよりは,単に体験学習と呼ばれることが多くなってきています。また,参加者自身の主体性を大切にすることをより表現できるようにと,トレーニングという言葉を使うよりは、「学習」とか「学ぶ」といった言葉が使われるようになってきています。また教育担当者のことを,学習を促進する人という意味で,「トレーナー」というよりは「ファシリテーター(学習促進者)」と呼ぶようになってきています。これも,今日的な教育観の一つの流れであるといえるでしょう。

ラボラトリー方式の体験学習の”体験”とは、どのようなことをいうのでしょうか?”実習”と同じ意味ですか?実習学習とはなぜ呼ばないのですか?

ラボラトリー方式の体験学習の”体験”と、体験学習のプログラムの中で行う”実習”とは違います。
ラボラトリー方式の体験学習における、”体験”から学ぶ”体験”には、”実習”と呼ばれる教育スタッフ(ファシリテーター、教師など)によって提示されて、研修や教室場面で行う”実習”もありますし、その他に、日常生活すべてが体験学習のための”体験”なのです。 “実習”は、exerciseの訳語ですが、日常生活の体験をより明確に吟味することができるように工夫されているものであり、その実習を通して日常生活での人間関係のありように気づきやすくなるように工夫されていたり、その実習を通して自分のコミュニケーションのありようや人への関わり方を練習するように計画されていたりします。ですから、体験学習の研修や教育プログラムでは、当然”実習”を用いて、学習者が自らの体験に対峙しやすくなり、学習のサイクルを意識したふりかえりを行い学んでいくことが容易になります。
しかしながら、体験学習の目標は、研修や教育プログラムの中だけで学ぶのではなく、そこでは基本的には学び方を学ぶこと(learning how to learn)を学び、その学び方を活用し、日常生活(職場や家庭などの現場)での体験を学習素材として扱い、実際に学びながら、学習者自身がチェンジエイジェント(change agent:変革者)となっていくこと、すなわち日常生活の場で一人ひとりの人間を尊重した現場づくり(民主的な風土づくり)に取り組むことを願っているのです。
最近の小学校、中学校などで、総合的な学習で、「生きる力」「一人ひとりを大切にする教育」を実践しようとしている教育実践の場は、まさにこの”体験学習”は効果を発揮すると考えてもいいのではないかと考えています。

ラボラトリー方式の体験学習の”体験”とは、どのようなことをいうのでしょうか?”実習”と同じ意味ですか?実習学習とはなぜ呼ばないのですか?

ラボラトリー方式の体験学習の”体験”と、体験学習のプログラムの中で行う”実習”とは違います。
ラボラトリー方式の体験学習における、”体験”から学ぶ”体験”には、”実習”と呼ばれる教育スタッフ(ファシリテーター、教師など)によって提示されて、研修や教室場面で行う”実習”もありますし、その他に、日常生活すべてが体験学習のための”体験”なのです。 “実習”は、exerciseの訳語ですが、日常生活の体験をより明確に吟味することができるように工夫されているものであり、その実習を通して日常生活での人間関係のありように気づきやすくなるように工夫されていたり、その実習を通して自分のコミュニケーションのありようや人への関わり方を練習するように計画されていたりします。ですから、体験学習の研修や教育プログラムでは、当然”実習”を用いて、学習者が自らの体験に対峙しやすくなり、学習のサイクルを意識したふりかえりを行い学んでいくことが容易になります。
しかしながら、体験学習の目標は、研修や教育プログラムの中だけで学ぶのではなく、そこでは基本的には学び方を学ぶこと(learning how to learn)を学び、その学び方を活用し、日常生活(職場や家庭などの現場)での体験を学習素材として扱い、実際に学びながら、学習者自身がチェンジエイジェント(change agent:変革者)となっていくこと、すなわち日常生活の場で一人ひとりの人間を尊重した現場づくり(民主的な風土づくり)に取り組むことを願っているのです。
最近の小学校、中学校などで、総合的な学習で、「生きる力」「一人ひとりを大切にする教育」を実践しようとしている教育実践の場は、まさにこの”体験学習”は効果を発揮すると考えてもいいのではないかと考えています。

ラボラトリー方式の体験学習で使われるコンテントとプロセスとは、どのようなものですか?

様々な活動を行っている時も、学校教育の現場でも、またプライベートの生活においても、私たちは多くの人々と共に時間と空間を共有しています。日常生活で、いつも何らかの体験をしながら人とともに生きているといえます。日常の体験、特に他者との関わりを考える時に、2つの視点-コンテントとプロセス-があります。
人間関係やグループ活動を観る一つの視点は、グループで取り組んでいる活動内容であったり、コミュニケーションでは話題であったりします。たとえば、自然活動体験をしている時には、オリエンテーリングでどのコースを歩くかとか、野外生活においてグループで食事の準備をして食事を共にするとか、夜のミーティングで明日はどのようなプログラムにするかを話し合っているとかいった事柄、これらは仕事とか課題、もしくは話題として表に見えている事柄です。これらをコンテント(活動内容)と呼びます。
もう一つの視点は、そうした活動内容を実践する際に、またある話題でコミュニケーションをしている時に、関係的な側面で何らかのことが起こっています。たとえば、グループ活動を行っている間に、またコミュニケーションをしている間に、一人ひとりがどのように話しているのかとか、誰がどのような影響を与えているのか与えられているのかなど、関係から生まれるさまざまな現象が起こっています。それをプロセス(今ここで起こっていること)とよびます。
これらコンテントとプロセスの2つの関係を、図に表すとすると、海に浮かぶ氷山のように描くことができます。この2つにズレが起こっている時に、特にプロセスに気づきやすくなります。たとえば、グループで偏見をいかになくすかという話題(コンテント)で話していても、話し合っているやりとりの中に偏見に満ちたやりとりがもし起こっている(プロセス)としたなら、コンテントとプロセスの不一致な状況が生まれているといえます。このズレに気づくこと、もしくは何が起こっているかに気づくことが体験から学ぶためにはとても大切になります。自然体験活動も含めて、幅広い教育現場を考えてみると、このプロセスをいかに扱うかがとても大切になります。いかに立派な教材を準備したり、自然環境が整った中での、教育を実践したりしていても、学習者の心の中に起こっていることや、教育者と学習者との間に起こっているプロセスに目を向けることがなければ、学習者の体験に基づいた学びにはなりません。プロセスに気づき、そのプロセスから学びが成立してこそ、ラボラトリー方式の体験学習が活かされた学習であるといえるでしょう。
体験学習は、このプロセスを観る目を養い、そのプロセスに働きかける力を育て、プロセスの中に主体的に生きる力を育てることを一つの目標にしています。

学習者と教育者とが一人対一人の『体験学習』というのは成立しますでしょうか?

きっと成立するでしょう。
体験学習は、学習者の生の体験を学習の素材(データ)として拾い上げ、そのデータのもつ意味を解釈し、学びとして概念化し、新しい体験に向けて目標や課題を設定し、次のステップとしてその目標や課題を実践する一連の学習過程(体験学習の循環過程といわれるもの)により成り立ちます。研修や学習場面の多くの場合、自らの気づきのデータだけでなく、他者が自らの人間関係のありようを映し出す鏡として機能すること、他者の目に写ったデータ(気づき)をフィードバックしてもらうという形で共有化したり、集めたりすることを行い、具体的には、お互いの気づきを共に話し合うことで、気づきの広がりが生まれたり、その行動が起こる原因などを分析したりすることをして学びます。
しかし、こうした作業が一人でできないかと言えば、そうではありません。一人でも、自分自身の体験をもとにして、学んでいくことは十分可能ですし、体験学習でいう学習のステップを実践することはできます。いわば、フィードバックという概念は、ともすれば人間関係トレーニングなど研修の場面では他者からのフィードバックと同意語に受け取られがちですが、実は、自分自身が自分のありように気づくこと、このことがまさにフィードバック情報であるわけです。時には、他者に言われて学ぶことよりも、自分自身が気づくことがインパクトを与えることもあると考えられます。自らの学びや成長のためには、やはり自分自身が気づくこと、フィードバックを自らが生み出せることが大きな働きになると考えられます。
それは、研修会や学習会が終了した後、日常生活の中で学んだ体験学習法(学び方を学ぶこと)を活用することを期待しているぐらいですから、自ら一人の力で学び取っていくことは十分に可能であると共に、そのようになることが学びの原点であると思います。

ラボラトリー方式の体験学習』の学びには『言語化できること』は不可欠な条件でしょうか?

確かに、体験を内省し、その気づきを言葉に表現できること、また仲間と分かち合いをする時に、言葉にして話し合いができることも重要な要素になります。
すなわち、ラボラトリー方式の体験学習は、4つの基本的なステップの学習の循環過程を想定しています。それらを丁寧に循環することができるためには、言語化という作業はとても重要です。またグループ活動をしながら、活動メンバーとの関係的なプロセスを学習の素材に用いながら、話し合いを通して学びを深めていく時にも、言語化することはとても重要になるでしょう。
しかしながら、私たちの体験はいつも言語化できるものとは限りません。時には、非常に強烈な情動を伴う体験もあるでしょう。ある時にはなんとも言葉では表現できないような感動的な体験や何かもやもやとしたり心にひっかかったりするような体験などがあります。
このような体験に伴う情動や心のもやもやなども自分のありようや自分の特徴的なかかわり方を学んでいく重要な学習の素材になる可能性があります。ある時には、言葉にできないような体験ではあるものの、ある時に自分のありように関するひらめきが生まれたり、自分の行為の意味や概念化が起こったりするような学びに導かれることもあると考えられます。逆説的に言うならば、言葉にできない体験が自分の変化・成長のために重要な意味をもつことにもなるともいえます。
また、小さな子どもで、語彙数がそれほど豊富でない学習者においても、きっと彼女・彼らの世界の関係を言葉以外を用いても学び取っているともいえるでしょう。

体験学習の応用について

ラボラトリー方式の体験学習とエンカウンターグループとは何が違うのでしょうか?

ラボラトリー方式の体験学習とエンカウンターグループ、もしくは構成的グループエンカウンターとの違いは何かについて、しばしば質問されます。その違いを知るには、やはりそれぞれのグループの誕生の違いをお話しするのがいいでしょう。

ラボラトリー方式の体験学習は、1946年米国コネティカット州で、雇用機会均等法の遵守のためのリーダー養成から始まったとされています。社会心理学のグループダイナミックス研究の創始であるレビン(Lewin,K.)らが州の教育局より依頼を受けて、彼らは、ソーシャルワーカーや教育関係者、企業人を集め、講義やロールプレイングやグループ討議を用いたプログラムによるワークショップを行いました。ベネ(1964)によると、グループ討議の時の参加者のやりとりの様子を報告し話し合っているスタッフミーティングに参加したいという参加者からの申し出があり、レビンはそれを了承したのです。そして、そのミーティングでは、スタッフ(研究者や観察者)と参加者と一緒になってグループ・プロセス(グループの中で起こっていること)を話し合ったみたいです。結果、ずいぶん相互に認識のズレがあることが分かり、参加者とスタッフがその時その場で感じていたことや心の動きなどのデータを率直に出し合っていくことによって、真実のグループ・プロセスが明確になり、自分・他者やグループの理解を深めていくことができたのです。これは、とても衝撃的な発見でした。その後、米国におけるNTL(National Training Laboratories)が1947年からメイン州ベセルで開催する「Tグループ(Human Relations Laboratory)」へ発展し、社会的感受性とコミュニケーションスキルの開発やリーダーシップの理解と実践のためのトレーニング、組織開発(Organization Development)などへの応用として教育プログラムは展開されていったのです。そこには、偏見の問題を取り上げながら(コンテント)、グループの関係の中に偏見をもった見方が存在しているかどうか(プロセス)といった視点をもつこと、すなわち “コンテントとプロセス”の認識、とりわけプロセスに気づき学ぶことが特徴的なものとしてあります。また、体験から学ぶためのステップとして、社会科学方法論を適応した”学習の循環過程”が取り上げられているのも、重要な特徴です。

一方、エンカウンターグループは、ほぼ同時期、1946年と1947年、シカゴ大学カウンセリングセンターに所属していた、クライエント中心療法の創始者でもあるカールロジャースと仲間たちが、集中的グループ体験を実施したのが始まりとされています。それは、第2次世界大戦直後の復員軍人の問題を処理する有能なカウンセラーを短期間で養成するといった要請に応えるためのものでした。そこでは、カウンセラーの資質の一つとしての”自己理解”を深める体験として、それとカウンセリング場面で有効であろう態度しての共感的に傾聴する態度の養成に主眼があったのです。その後、ロジャースは、「集中的グループ体験は、おそらく、今世紀のもっともすばらしい社会的発明である」と述べ、グループを用いた人間関係トレーニングとして「ベーシック・エンカウンター・グループ(basic encounter group)」がアメリカ西海岸を中心に発展していったのです。そのグループ体験は、一人ひとりの人間の存在を尊重し、「いまここ」での関係に生きるとき、メンバー相互に驚くほどのエネルギーの集中が起こり、メンバー相互の理解や出会いが生まれ、その時個人やグループの変化成長が生起することを発見していったのです。

以上のことから、ベセルで始まったTグループなどの体験学習は、”グループ指向”、”体験から学ぶ教育指向”といわれ、一方エンカウンターグループは、”個人志向”、”治療的な関係指向”といわれるゆえんであることがご理解いただけると思います。ラボラトリー方式の体験学習は、グループ体験をすることから学ぶことが大切になります。一方、エンカウンターグループはグループの中で共感し合える体験ができることが大切になるといえるでしょうか。

しかしながら、今日では、お互いのアプローチが融合しあいながら、グループ体験を用いたさまざまな活動に広がりを見せており、両者の違いを論議することにはあまり意味を見いだすことができないと考えています。
目の前の学習者にとって、何が大切か、その視点からいろいろなアプローチができるといいでしょう。

『体験学習』という言葉はいろいろなところで使われていますが、いわゆる農作業やどこか職場や自然に出かけていくことで学ぶ『体験学習』と、『ラボラトリー方式の体験学習』とは異なるのでしょうか?

同じ『体験学習』という言葉が使われていますが、内容は異なると考えられます。
農作業や自然体験をすることで、学習者である子どもたちは、きっと何かを学ぶことには間違いないでしょう。きっと、教育の目標が、学習者にとっての学習目標にあわせて学ぶことは変わることになるでしょう。たとえば、農業体験を通して、農業の仕方について学ぶことも一つの体験からの学びといえます。これは、『体験学習』でもコンテントを大切にした学習といえるでしょう。
時には、あまり意図した学習目標をもたず、体験することそのものが目的になっている場合にも多くみられます。しかし、何かを体験すれば、学習が成立するかといえば、必ずしもそうとはいえないことがあるのではないでしょうか。
時には、意図した学習の目標と違う効果が生まれるということさえ起こっていることもあります。たとえば、先生が熱心に社会のある単元を教えている時、横の友達に分からないことを尋ねられて教えてあげていると、先生にきつく叱られたとしましょう。子どもは、「友達に親切にするよりも、この先生の授業の時は、先生の言っていることに従わないといけない」ということを学んでいるかもしれないのです。これを、ヒドン(hidden:隠された)カリキュラムと呼ぶことがあります。オープンなカリキュラムで学びながら、そこに起こる事柄から人との関わり方などを学んでいるのです。
学習方法としての『ラボラトリー方式の体験学習』とは、体験するだけでなく体験したことから、その体験の中(私の中、私とあなたとの関係の中、グループの中など)で起こっていたことに焦点をあて、気づきを深めていく作業が大切になります。気づきを深め、学びとするためのステップとして、【体験】→【指摘】→【分析】→【仮説化】→【試み体験】の循環モデルを考えています。この過程を大切にすることから、『体験学習』とよぶよりも、『プロセスの学習』とか『気づきの学習』とよぶと良いのかもしれません。学校の先生方と一緒に研究会などをやっていますと、学校教育に『ラボラトリー方式の体験学習』をよりよく理解され実践してもらうためには、『見直し学習』とよぶといいのではないかと話された方もいます。自然体験活動や環境教育などの領域では、体験の中で起こるプロセスに気づき、体験学習の学びのステップを大切にした学習の仕方を『体験学習法』とよび、体験だけに終わらない学びとして成立することをめざして実践活動を行っている人々もいます。

ラボラトリー方式の体験学習(環境教育では、体験学習法とよばれる)は、自然体験活動・自然解説プログラムや環境教育の中で、どのように活かせますか?

ラボラトリー方式の体験学習を学ぶことは、まず自然体験活動や環境教育に関わっている教育者(スタッフ)自身が成長するために大切な学び方を学ぶことになると考えています。
自然体験活動や環境教育プログラムに参加する学び手に対して、スタッフ自らがどのように語ったり、相手の話を聴いたりしているかといったコミュニケーションのありようを内省し考えることは大切だと考えられます。コミュニケーション能力をスキルアップするためにはラボラトリー方式の体験学習の考え方を活用することは有効です。その他に、自分の対人関係を磨いていくことが大切な場面として、チームでプログラムを開発したり、自分が所属する組織のありようを点検・改善したりするためにも、ラボラトリー方式の体験学習は有効です。その時には、まず”コンテントとプロセス”のプロセスという視点を大切にしてください。
次に、実施プログラムを充実させていくためにラボラトリー方式の体験学習を大いに活用するとよいでしょう。実施した教育プログラム実施体験から、絶えずスタッフが学び、よりよきプログラム作りのためには、体験-指摘-分析-仮説化-新しい体験といった、よりよいプログラムの実施に向けての問題解決手法としてラボラトリー方式の体験学習を意識し、実施することは大切になるでしょう。優秀な教育者や経営者になっていくためには、ラボラトリー方式の体験学習の実践者になることが重要であると考えられます。このように自らの教育プログラムの実践体験からファシリテーション能力を高めていく教育スタッフになることを、”内省的実践家(reflective practitioner)”になるといい、私は内省的実践家になろうというメッセージを発しています。  そして、3つ目は、参加者へのプログラムがラボラトリー方式の体験学習を活用した教育プログラムになっているかといった視点から、実践のプログラムを創ることが大切になります。学習者に、ただ教え込むだけのプログラムになっていないか?学習者が気づき・発見するプログラムになっているか?学習者がいろいろなプロセスに気づくことができるように焦点があてられているか?など、ラボラトリー方式の体験学習を十分理解しプログラムを設計し実践することによって、本来の自然体験活動や環境教育がめざそうとしている教育目標に近づくことができると考えています。

ラボラトリー方式の体験学習が大人の教育であり、成人にとっては効果があるかもしれませんし、また指導者自身にとって有効であることは理解できますが、小学校など、特に年齢の低い子どもたちに活用可能でしょうか?

きっと工夫をすることによって、活用可能であると思います。実際に、平成17/18年度の南山大学教員養成GPの事業では、2つの小学校が研究協力校としてラボラトリー方式の体験学習を授業の中に取り入れ実践研究され、効果を得ています。
ラボラトリー方式の体験学習は、幅広い対象に対しても、またさまざまな領域の学習に対しても適応可能だと思います。しかし、質問のはじめに述べられていますように、教育者・指導者がラボラトリー方式の体験学習の実践に根ざしている学習者観や教育観などに関する深い理解をもっていることは、教育現場ではとても重要な力になると考えられます。
ラボラトリー方式の体験学習は、学習者の生の体験や学びへの動機を第一に考えます。いかに学習者を大切にしながら教育プログラムを提供することができるか、かなりの技量も必要になります。このことは、教師中心の文化伝承型の一方的な教育の発想とは180度異なる教育観への転換が求められます。いわば、それは教師中心の教育から学習者中心の教育へと教育に対する価値観の転換ともいえるでしょう。でも、もしこのことが可能になるなら、きっと学級の中での子どもたちは生き生きし、大げさかも知れませんが、学校自体が活気を帯びてくることでしょう。
実習教材としても、最近はたくさんの書物が出版されています。実習教材は、小学校の低学年用から中学生用、高校生用まで幅広くあります。ただ、教材があっても、ラボラトリー方式の体験学習に関する基本的な考え方や進め方の理解が必要になります。少なくとも、プロセスに気づき、そのプロセスから学ぶ学習の循環過程が活用されたプログラムになっているかどうかが、大きなポイントになると思います。

すべての学校教育が『ラボラトリー方式の体験学習』を活用すべきでしょうか?

すべての学校教育がラボラトリー方式の体験学習になるべきだとは思いませんし、学習内容によっては体験学習が適切でないものもあると考えられます。
それよりも、体験学習で扱う「コンテント」と「プロセス」という視点をもつことは、学校教育ではとても大切になると考えています。たとえば、グループを作って班学習やプロジェクト学習のような学習を行っている場合に、そこには子ども同士の人間関係のプロセスが生じており、そのプロセスに目を向けることにより、子どもの人間的な成長(いわゆる、社会性とか主体性とか、いわれるものも含めて)に向けて教員は支援することが可能になると思います。ひとりぼっちになっている不安な気持ちや、新しい事柄に挑戦する戸惑いの気持ちや、人に教えてもらった喜びの気持ちや、友達に意見や考えを述べて役に立った思いなど、学習者である生徒の心理的な問題を扱うことができ、生徒間の関係を大切にした教育実践が可能になると思います。
また、教員自身が子どもたちに向かって語りかけている時に、教員自身の中に起こっていることや子どもの中に起こっていること、また子どもとの関係の中に起こっていることに気づきながら授業展開できること(いわば、教育活動の体験から教員が学びながら授業をすすめることができること)は、教員の重要な教育者としての資質といってもいいでしょう。そうした教員を”内省的実践家”とよびたいと思います。
授業としては、教育目標や学習目標と照らし合わせながら、必要な際にラボラトリー方式の体験学習を用いることで十分であると思いますが、教員は教育活動において絶えずラボラトリー方式の体験学習の学び手であることを意識することは、学校教育において大切であろうと思います。

体験学習の進め方について

「体験学習を実施するということは、何か”実習(exercise)”を行わないと成り立たないのでしょうか?それとも”実習(exercise)”をしなくても成り立ちますか?

成り立ちます。
いつも実習を行わないとラボラトリー方式の体験学習が実施できないということはないと考えています。体験学習の体験のステップにおいて、学習者が体験するグループ体験として、一つは、Tグループのような比較的構造化が低いグループ体験と、もう一つは、ファシリテーターが準備して課題などが比較的明確に示された構造化が高いグループ体験があります。Tグループは、共に過ごすメンバーと場所と時間が決められていますが、後の話題や手順などは何も決められていません。こうしたグループ体験を構造化が低いと表現されます。それに反して、情報紙をもって問題解決をしたり、コミュニケーションの話題がファシリテーターから提示されて、観察者をおいてコミュニケーション実習をしたりすることは、話題や手順が決まっていることから構造化が高いと表現されます。Tグループのような構造化が低いグループ体験の中から自由に学びの環境を作り、関わりを促進し学びを深めるファシリテーターには高度な能力が必要とされます。それに比しては、実習を用いたラボラトリー方式の体験学習の実施者としてのファシリテーターは、体験の構造が明確であること、またその体験からふりかえるためのふりかえり用紙などが準備されていることから比較的実施しやすい面があります。
ただ、もっと体験の場を広げてみると、ファシリテーターが準備する体験の場だけではなくて、日常生活の体験も学びのための大切な体験といえます。すなわち、何かの実習をしないと体験学習ができないかというと、そうではありません。
ラボラトリー方式の体験学習とは何か、その基本を理解していただけると、そこからの発展・応用と幅広く可能性が広がっていくことでしょう。学級集団の中で、何か一緒に仕事をした、勉強をした時に、教員が子ども達にどのような言葉かけをするか、どのような働きかけをするかで、ラボラトリー方式の体験学習の考え方が生かされた学級運営が可能だと考えています。一緒に、野外で飯ごう炊飯をした後で、とか教科学習(国語でも、理科でも、社会でも、算数でも)で何かグループワークをした後で、どんな体験をしたか?一人ひとりがどのようなことを感じたり考えたりしたか?誰がこのグループ活動に影響を与えていたか?など、問いかけることで、一人ひとりがどのようにそこにいたか?影響を与え合った関係があったか?こうした問いかけと生徒と共に考えることを通して、一人ひとりの存在の意味をしっかりと身につけていくことができると考えています。逆説的に言えば、体験学習と銘打って、何か実習をしたとしても、その後で、その体験のふりかえりが適切に行われなければ、『体験学習』といえないでしょう。
質問に対する答えとしては、上記の基本的な考え方を大切に実施していただければ、さまざまなグループ活動は、ラボラトリー方式の体験学習の実践の場となりえます。
最後に、子ども達に意見を求めるときに、この答えが正解・不正解といった枠をもたずに聞きたいものです。子ども達のいずれの発想も正解であり、それら(肯定的な意見も、否定的な意見も)をオープンにできるようになることが、学級に信頼の風土を創り上げられていくと考えたいものです。当然、子どもが教師を信頼してくれるようになるということも含まれています。

ラボラトリー方式の体験学習には、いつもふりかえり用紙を使用する必要がありますか?

ラボラトリー方式の体験学習は、学習者自身の体験、とりわけプロセス・データを活用して学ぶ学び方です。よって、体験した後に、どのような体験をしたか?気づいたことは何か?何故そのようなことが起こったか?そこから何を学んだか?これからの自分の課題や目標は何か?など、ふりかえりをすることはとても重要ですし、ラボラトリー方式の体験学習の核でもあります。すなわち、このようなふりかえりの時間をとってはじめてラボラトリー方式の体験学習を用いたプログラムを実践しているといえるでしょう。
環境教育の世界では、単に体験するだけの学習プログラムに終わらせずに、体験から学ぶことを尊重するために、「ラボラトリー方式の」と言う言葉に換えて、「体験学習法」という用語を用いることもあります。
ただし、いつもお決まりのようにふりかえり用紙を記入する時間をとり、記入したすべてを分かち合わないとラボラトリー方式の体験学習ではないという考え方は適切ではありません。あくまでも、学習者に対して前述のような、どのような体験をしたか?そこから何を学んだかを考えることができる問いかけがファシリテーターから適切に投げかけることができるかが大切になります。ラボラトリー方式の体験学習を熟知し、自己学習が可能になった学習者は、自らが自分自身に学びのための問いかけができるようになっていくと考えられます。

ラボラトリー方式の体験学習では、オープニングのプログラムなどで、画用紙にクレパスで色や線で自分の気持ちなどを描いてくださいと言われることがありますよね。自分自身は言葉が書きやすいと思ったり、クレパスなどを使って何かを表現することは、日頃やっていない体験なので驚きと戸惑いがあったりしました。画用紙やクレバスを使う意味は何ですか?

画用紙は、一つの作品、キャンバスとして、自分を思いや考えを表現する素材として、使用することがあります。いくつかの問いかけに対する答えを一枚の紙に書き、後で他のメンバーに見せて説明したり、掲示して発表したりするために白紙の画用紙を使っています。また、その時の気持ちにぴったりする色の画用紙を選んでもらって、キャンバス(今のわたし)探しから今の自分を点検するような働きかけをすることがあります。
また、クレパスで描くことで、子供の時にちょっともどる感じで、懐かしさと同時に、自由な発想で、いろいろな思いをいろいろな色で表現することで、より想像的で創造的になるのではないかと考えています。特に、自分の気持ちを表現するときに、言葉で書いてしまうと、言葉で書いた感情(名前をつけた気持ち)、すなわち気持ちのラベルそれだけが今の気持ちになってしまうかもしれません。色や線の絵で表現していると、描いている間に新しい気持ちが生まれ、その絵(色や形)にさらに手を加えることで、今の気持ちにさらに素直に気づいたり、気持ちの力動性を表現することができたりするのではないかと考えています。いわば描きながら自己内でいろいろな対話が起こり、そのダイナミクスを表現することができ、創造的になるのではないでしょうか。
ただ、抵抗がある人は、言葉や文字で表現することでもいいと思います。これでなければならないという指示は適切でないかもしれません。参加者の様子を見ながら、ファシリテートすることが大切になります。ただ、こうした抵抗感の中においても、参加者に言葉の方が表しやすいという自分がいることに気づいてもらうことも自分のありようを知っていくための一つのデータであると認識してもらうことも一つのファシリテーションです。

情報紙を用いた問題解決実習を実施した際に、正解か不正解かという結果によってふりかえりに影響を与えることがあるので、ふりかえり用紙に記入し、分かち合いをした後で、結果と正解の発表をしています。すなわち、結果と正解の発表をしないでふりかえりをするという、こうした方法は適切だと思いますか?

確かに、そのようなやり方は考えられますが、私は実習としてやった結果(コンテント)を大事にする意図から、そのような手順は基本的に行っていません。問題解決実習において結果を出すということは、参加者が話し合った大切な成果です。その結果がどうだったのか参加者自身も知りたいでしょうし、また参加者が議論した内容を明確にするために、結果の報告と正解の発表をやった後ふりかえりを行う方が適切ではないかと考えます。
正解をした場合には、一般に、成功したということでふりかえりに入りやすいのですが、不正解の場合には、問題が悪いからできなかったのだとか自分たちの話し合いのプロセスの問題以外を理由にしてしまい、ふりかえりに入りにくいことが確かにあります。
そうした場合には、ふりかえりに入るときに、しっかりとこれからのふりかえりがこの学習にとって重要であり、また不正解ゆえになぜそうだったのか考えてみることがこれからの自分のことやグループのことを考えることにつながり、学習者個人や他者、グループのありようの学びになることを強調して、成功しなかったグループをしっかりサポートする介入が必要になります。
まず、グループ活動を思い起こしながら、ふりかえり用紙に丁寧に書くことのお勧めをすることです。その後のふりかえり用紙をもとにした話し合いは、実は先ほどの問題解決実習と同じようにもっている情報が、さきほどの情報カードから、ふりかえり用紙に変わっただけであって、同じような仕事をするということを伝えて、再度グループ討議を行ってもらうといいでしょう。課題としては「メンバー一人ひとりがどのようにしていたかを知ること、またグループの診断をすること」であると伝え、励ましを送ることが大事になるでしょう。
スタッフとして、同時にそのふりかえりのわかちあいのプロセスを見守っていることが大切になります。そのわかちあいの中で、実習の時と同じようなプロセスが生まれるのか、新しいプロセスが生まれるのか、きっと興味深い発見があるでしょう。そうした発見がグループへの介入やコメントに生かされることになり、学習者の学びを促進する働きかけにつながっていきます。プロセスは不思議で、絶えず動いているのです。

実習を用いた体験学習でグループワークをする際に、あらかじめ進行係やリーダーを決めずに実習を行いますが、何か理由がありますか?よく、ふりかえり用紙を記入し、分かち合いをしていると、リーダーを決めてやるとスムーズにできたのではないかとか、逆に役割を決めていなかったので自ずと役割ができていたのがよかったなどといった声を聞きますが、役割を決めない理由を教えてください。

私が実習を用いた体験学習をする際には、ロールプレイによる実習などのように役割や手順など課題の進め方を明示しない限り、進行役などの役割を決めることは基本的にはありません。
それは、全く何も役割が決まっていないグループ活動をする中に、参加者一人ひとりの参加の仕方やコミュニケーション、影響の及ぼし合いが生まれるところに、大きな学びの要素が有ると考えているからです。まさに、それがラボラトリー方式の体験学習の大切な学び方であるともいえます。
何か役割が決められていると、役割をもつ人ももたない人も、行動を引き起こしたり引き起こさなかったりした理由に、その決められた役割に原因帰属(理由づけ)をすることになるでしょう。何もないところから、生まれるところに、その人の他者へのかかわり方やグループへのかかわり方のありようのデータを拾い集め、素朴にそのデータを吟味することができると考えています。
情報紙を用いた問題解決実習において、情報紙を分けもち、その情報を出し合って、一つの回答を得たり、地図を描いたりするグループワークは日常にはない非日常のトレーニングの場面と言えるでしょう。しかし、そこに起こっている一人ひとりの他者へのかかわり方のありようは、まさにリアルなものそのものなのです。だからこそ、学習者一人ひとりが、そのプロセスから学ぶことに強いインパクトを受けることになるのでしょう。仕事は非日常的な実習でも、そこに起こることはリアルな関係(事実)であり、ファシリテーターが学習者の学びの大切なデータとして取り上げていくことが重要であると考えています。
また、役割が決められると、その役割に従い、行動はかなり制限を受けることになります。記録係になると、記録をすることだけに終始し、それ以外の仕事や働きをしなくなるでしょう。進行役になると、仕事を進めることに意識は向けられ、自由な発想での発言や疑問などを投げかえることが少なくなることがあります。役割が与えられない中で、自由にグループ討議ができるようになることは、それぞれがリーダーシップを自由に発揮できるようになることであり、グループ活動にクリエイティブさが生まれる可能性があります。学校教育の現場で、ラボラトリー方式の体験学習を実践し、子どもたちが自由な発言を行うことができるようになると、教科学習における協同学習の創造性を生み出す豊かなグループ活動を可能にすると考えられます。それだけ、役割にとらわれずグループ活動ができるようになることは大切であると考えています。

ラボラトリー方式の体験学習による人間関係トレーニングでは、『フィードバック』を活用すると言われますが、『フィードバック』とはどのようなものですか?また、『フィードバック』を行う際の留意点というのは何かありますか?

フィードバックという用語は、もともと、自動制御回路などの電子工学の分野の言葉です。人間関係を学ぶ研修では、『フィードバックとは、人間関係の中で、各人の行動が他者にどのような影響を与えているかに関する情報を提供したり、受け取ったりする情報の相互交換のプロセス』です。
フィードバックをする際の基本的な心構えとしては、『フィードバックとは個人やグループが成長するためになされるものであり、お互いの関係を深めるものである』ということを肝に銘じておく必要があるでしょう。
フィードックの効用として、(1)学習者が自分の対人行動が自分自身の意図と一致しているかどうかを知ることができる、(2)お互いの関わり方に気づき、真実の関係を創り上げることができる、(3)学習者が新しい対人行動を獲得するための強化をする働きがある、と言えるでしょう。
そのためには、(1)良い悪いというように評価的にならずできる限り記述的になること、(2)伝え手の思いとして「私は・・・」というメッセージで伝える、(3)フィードバックの受け手のニーズに応える、(4)適切なタイミング(できるかぎり早い時点)で伝える、(5)多くの人からのフィードバックを受け取る、などの留意点が考えられます。フィードバックは、伝え手の言いっぱなしにならないように、フィードバックをめぐって、お互いに親密に話ができるような配慮はしたいものです。
と同時に、フィードバックの基本は、自らの行動に関して、自らが気づくことができること、セルフフィードバック(モニター)をどの程度できるかが重要になると考えています。ラボラトリー方式の体験学習を学ぶことによって、気づくことが豊かになることが一つ期待されていることです。このことは、自分の行為に関してフィードバック(モニター)できる情報を自らがキャッチすることができる力を育てているのです。

フィードバックを受け取る時に、誰からのフィードバックであるかによって影響力が異なることがあります。例えば、年齢が高い人からフィードバックを受け取る時とか、地位が高い人から受け取る時など、特に意識してしまいます。どのようにフィードバックを受け取ればいいのでしょうか?

確かに、ふりかえり用紙に記入したことや気づいたことを他のメンバーから受け取る時に、歳をとられている人や、その筋では専門家であるという人のフィードバックは、一般に共にグループ活動を行ったメンバーでありながらも、影響力が異なったり、メンバーによってはそのような権威ある人からメッセージを大切にしようとしたりする傾向の強い人がいるのは確かです。
本来は、どの人からのメッセージも同じ重さであり、一人の人間からのフィードバックとして受け取れることが大切であると考えています。もし、そのような特定の人のフィードバックに対してのみ影響力を感じていることが起こっているならば、そのこと自体がとても大切なプロセス・データになると考えられます。そのデータをもとに、今のグループのありようを考えたり、一人一人の対人関係のあり方やメンバーの特徴を探ったりできるのです。ラボラトリー方式の体験学習の代表的な手法としての”Tグループ(トレーニンググループの略)”では、ラボラトリーという場にはできる限り初めて出会う人たちが集まり、その関係の中のプロセスに生きながら学ぶという原理にあるのは、こうした権威とか既知の関係にある前提を避けるためにも大切な教育環境なわけです。
特に、フィードバックの授受において注意しなければいけないことがあります。それは、教育スタッフ自身が一つの権威者になりうるということです。教育スタッフが学習者のために大切だと思ってフィードバックする行為が、実は他のメンバーよりも意味があるものとして学習者に映り、それが正しいと思って理解されてしまうことが起こることを教育スタッフは肝に銘じておく必要があります。自己反省も含め、そのフィードバックが一見厳しかったり、鋭く感じられたりするものほど、そのように学習者は感じ、時には、学習者を傷つけてしまう可能性を秘めているのです。実習を用いた学習もそうですが、特に、”Tグループ”による学習は、フィードバックが主となるトレーニングでもありますから、どれだけ参加者相互に自由にフィードバックができるか、それはスタッフとの関係においても権威という関係ではなく平等な関係の中でフィードバックができるかがとても重要になります。こうした真実なる自由の風土、民主的な風土をいかに創り出すことができるかが、ラボラトリー方式の体験学習の鍵になるのです。

『ラボラトリー方式の体験学習』の学びを学習者の日常生活に繋げるために留意することはどのようなことですか?

このことは、体験学習を実践する指導者にとって、大切な問題です。
参加者の中のある人は、研修の場でラボラトリー方式の体験学習からインパクトを強く受けて現場(日常生活)に戻るだけで、特別のプログラムを準備しなくても日常生活に学びを繋げることができるかもしれません。また、少なくとも研修終了時に何らかの問題提議をして後は学習者に任せるといった、比較的楽観主義的な発想のファシリテーターから、日常生活で実行する行動目標も立て、その後のフォローアップも何らかの方法で行わなければという厳密に日常生活への橋渡しへのプログラムを提供しようとするファシリテーターもいます。
このラボラトリー方式の体験学習の学びから日常生活へ橋渡しをすることを、ラボラトリー方式の体験学習では、”リエントリー”とよびます。日常生活からラボラトリー方式の体験学習に入ってくることを”エントリー”すると考えて、日常に戻ることを”リエントリー”と呼ぶわけです。学習のスタートの時に、アイスブレークが必要であったり、ねらいの明確化や共有化が必要であったりするように、学習の終了時に現場への橋渡しのプログラムは丁寧に行われることが大切だと考えています。
ラボラトリー方式の体験学習は、学び方を学ぶことが大きな学習目標であると言われます。日常生活と切り離されたところで、ピュアーな体験をしながら学ぶよさがラボラトリーにはあります。それは、日常生活での体験とラボラトリー方式の体験学習の中での体験とはかなり質が異なるということだと思います。それだけ、切り離されているわけですから、それゆえ余計に、研修(ラボラトリー方式の体験学習)期間中に十分に体験からの学びを定着させるプログラムを実践することと、日常生活での学ぶためのヒントを全体の分かち合いの場や学びを概念化するようなプログラムをファシリテーターが提供することは大切でしょう。
さらには、研修を終えてからしばらくして、研修のその後どのように日常を過ごしていますかといったフォローアップのプログラムがもてることは学習者の日常への転移のプログラムとしては親切でしょう。

ファシリテーターの働きについて

ラボラトリー方式の体験学習では、プログラムを実施する教育者のことを、スタッフと呼んだり、ファシリテーターと呼んだりしますが、その呼称にはどのような意味があるのでしょうか?

私は、研修の教育担当者や学校現場の教員のことなどをスタッフ(staff)という言葉を好んで使います。
体験学習を実施する教員は、知識を一方的に伝える形式の授業を行い何かを教えるといった人間というよりも、学習者が自らの体験から気づき学ぶことを促進する役割をもつ人間として位置づけ、教員よりもスタッフという言葉を好んで用いています。
スタッフは、学習場面を支える人々すべての総称であり、教員はもちろんのこと、事務局の人々も同じようにスタッフと呼びます。いわば、学習者が学習の主体になることはもちろんのこと、教員スタッフと事務局スタッフによって教育活動(学習活動)は成立していると考えています。
スタッフ(staff)の言葉のいくつの意味の中に、『つえ』という意味があります。ラボラトリー方式の体験学習に関わる教育スタッフ/事務局スタッフは、ともに学習者の学びの『つえ』になること、すなわち学びの『支えになること』をめざしているともいえます。
ラボラトリー方式の体験学習の誕生に際して、「人間関係トレーニング」とか「トレーニングラボラトリー」という言葉が使われました。そうしたトレーニングにおいては、初期の頃は教育者(指導者)をトレーナーと呼んでいます。トレーニングを行う人として、まさに、トレーナーが使われたのです。今も使用することがあります。
運動能力をトレーニングするためのスタッフとしてトレーナーという言葉は日本語としては理解しやすいのですが、時として「トレーナー=訓練者」という響きを学習者や関係者に与えることがあり、ある種の抵抗感を感じさせかねません。
そこで、最近は「ファシリテーター=促進者」という言葉が比較的多く使われるようになってきています。この時の促進者とは、学習者の学習を促進する役割をもった人という意味で使われているのです。ベーシック・エンカウンター・グループでは、ファシリテーターという呼称が古くから使われています。

介入の仕方、どのように体験から学ぶためのファシリテーションを行えばよいのか難しく感じています。ファシリテーターとして介入時の留意すべきこととはどのようなことがありますか?

1970年代頃から高度経済成長期に、我が国においても、Tグループや感受性訓練(ST:Sensitivity Trainingの略)といった集中的グループ体験が流行した時があります。グループ体験が、これまでの生活の中で身につけてきた各個人の関わり方を揺さぶり新しい行動様式を身につけることができるほどのインパクトを与えるトレーニングであったことが影響していると思います。また、そうした米国から輸入されたトレーニングに参加する教育スタッフもはじめてのことが多く、ファシリテーターの行動(介入)がある種マニュアル的になっていたこともあるのではないかと思います。すなわち、ファシリテーターが操作的な質問や指示によって、自己開示を行わせたり、情動的な反応を引き起こさせたりして、あたかも新しい自己に出会えたかのような体験をさせる自己啓発セミナーが代表的な操作的なトレーニングといえるでしょう。ともすれば、ラボラトリー方式の体験学習は、そのようなセミナーと混同されがちでもあります。
ラボラトリー方式の体験学習は、学習者の生の体験を用いるトレーニングや学習であり、そこに起こるプロセスにアプローチすることから、学びは成立するということが前提です。
そこで、気をつけなければいけないのは、実施するプログラムの体験やふりかえりにおいて、ファシリテーターが行う行為(学習者の学びのために働きかけをすることを介入とよびます)が、学習者に与える影響、その影響過程のプロセスを丁寧に吟味することがとても大切になります。
特に、ファシリテーター自身の感受性が重要になります。あくまでも体験学習を用いた教育実践では、学習者自身の自発性/主体性を大切にすることが大前提です。厳密に考えると、何かを指示して学習者に動いてもらうこと自体、すでに操作的な発言をしているといえるでしょう。学習者は、ただファシリテーターが動けと言ったから動いているだけということが起こっているかも知れません。主体的、自発的になることが教育目標でありながら、そこに起こっていることは受動的な存在にさせてしまっていることがあるかもしれません。そのためにも、今ここで起こっていること(プロセス)に、ファシリテーターは目を向けておかなければなりません。
ある時のことです。学生が、教員に対して「レポートはどのように書けばいいですか?」「ページ数はどのくらい書けばいいですか?」「どのように調べればいいですか?」と次々と質問をしていました。それに応答していた教員が最初の頃は丁寧に答えていたのですが、途中で「自分で考えなさい!」と厳しい口調で話しました。学生は「はい、わかりました。」と静かになりました。このシーンをどのように見ますか?教員が「主体的になりなさい」と言って、学生が「はい!わかりました。」と従ったとしたら・・・それは「主体的?」

ファシリテーターである自分と教師でいる時の自分とのギャップに悩んでいるのですが、どのようにすればいいのでしょうか?

ラボラトリー方式の体験学習を理解していただき、実践を積んでいくに従い、上記のような質問が出てきます。いろいろな思いにおけるギャップだと思いますが、これまでは、一方的に子どもたちを引っ張ってきていたのだけど、学習者一人ひとりの気持ちを大切にしたり、気づきを大切にしたりする指導者像とはずいぶんズレを感じられるのだろうと思います。
それは、体験学習のファシリテーターであることは、参加者の意志を十分に尊重し、参加者の学ぼうとする意欲や意識を高め、目標を明確にすることを大切にします。よって、自由な風土の中で体験し、その体験をふりかえり、そして学ぶことを促進する(ファシリテート)教師像と、学校教育の中で教科を教える教師あるいは教え込むと言ってもいいかもしれない教師像とのズレといってもいいでしょう。
体験学習を導入した初期の頃に感じる方がみえたり、一方体験学習の実践を重ねる中で感じられたりする方もみえるでしょう。生徒の言い分を聞いていたのでは、授業がうまく展開できるはずはない。また、学校の校則、規律に従わなくなり、学級・学校が崩壊するのではないかとさえ、不安になってしまう先生もいらっしゃるかもしれません。
もう一度、なぜラボラトリー方式の体験学習を導入するのか、また生徒の意志を尊重する働きかけや生徒から学びを引き出そうとする(ファシリテートする)介入が大切なのかを考えてみたいものです。やはりあくまでも、生徒一人ひとりを肯定的に見ていく視点や態度が私たち教師に必要であることを訴えておきたいと思います。生徒は、自分の学びたいことを見つけると自分の力で十分に学び得るのだといった学習者観に立つことが大切です。学習者が主体的に学びうる存在であり、その学びを引き出してこそ学習は成り立つのです。それは、自らの力で疑問を感じ、それを探求する問題掛けいつ能力を育成することになるのです。
一方、カウンセリングを学んだ先生や教育担当者の方が、相手のことを傾聴するのが大事だということで、「聴くことを大切にするのですが、こちらが言いたいことがあっても言ってはいけないのですよね。自分の中に思いがたまってばかりでこの思いをどのようにすればいいのか?とても悩んでしまうのです。」という声を聴きます。そうしたことはきっと、ファシリテーターという役割を背負うことで、自分の思いを伝えてはいけないのではないかと思いこんでいる教育者の方がいるということでしょう。自分の中に起こることもすべて大切な学習の素材になります。相手に対して怒りや不安などを感じるなどネガティブな感情も含めて、ファシリテーター(教師)の思いを正直に伝えながら学習者と関わることによって、教育現場が開放的になっていくと考えています。
生徒と教師の間に真実の対話が成立することがラボラトリー方式の体験学習では大切にしていきたいことなのです。お互いに構えることなく自由に語り合える教育現場づくりができるように、ぜひ体験学習を導入してもらいたいものです。