昨日は、我が住宅地の「まちのルールづくりワークショップ②」に参加
7月10日(日)午前10時より、2時間ほど、表題の我が家の住宅地住民のワークショップが開かれました。
物見遊山で、6月の第1回と今回の第2回のいずれも参加してきました。一参加者として、こうした会に参加することは意味がありますね。
別の角度から、ファシリテーターを見ることはもちろんですが、ワークショップのメンバーとして、確かに地域住民と出会い、近づく体験ができることは、私にとっては、公私とも(変な表現ですが、仕事でも、プライベートでも)大切な場になりました。
今回のファシリテーターの方に感謝です。
プログラムのプリントです。
プライベート、もしくは一参加者としては、少々、強引なファシリテーターの指示に従いながらも、グループのメンバーになった方とは、楽しく話ができ、近づくことができました。感謝です。
そして、一方、ふと今・・・
1時間ほど、話をしましたが、一人ひとりのメンバーをしっかりと思い出せないというか、覚えていないのです。
上記のことを書きながら、今活動をふりかえると、やはり仕事仕事に追われている感じがあったからかもしれません。もう少し人と人とがふれあう感じの体験になるといいのかもしれません。このことは、今考え始めたことです。
作業として、将来の町の様子をA5サイズの白紙に絵を描き、その絵を発表しながら模造紙に貼り付け、そのそばに、付箋に理想の町について言葉で書いたのを貼り付けていきました。次に、ロール(のような)カードを引き、そのカードの指示(若い大学生、中高生、老人、鳥、など)の視点から、必要なものを付箋に書き出していき、追加で貼り出しました。
今から思えば、仕事に追われている感じで、参加者も、次に何をやるのですか?このカードは何に使うのですか?と課題に関心が向いていきました。
改めて、こうした町づくりのワークショップのプログラムを考えると、一緒に過ごした人は、またこの地域にいる人は、どんな人がいる!ということが、お互いにわかるようなファシリテーションが大切になるではないかと、考え始めています。
実は、細かくは、導入のところから、いろいろと、いただいた日程表にコメントを書きながら、参加していましたが、上述したことがとても大きなポイントのように思えてきました。
それで、最初に、チェックインのような、一人ひとりが語る時間があるといいなと思ったのだと今、感じています。どうしても、ファシリテーター主導で、先週のやったこと、前回は参加されていないけど、今回参加されている人を拍手で迎え入れるということをやって、スタートしたのですが、参加者は、全員の前で話をしていないのです。
もしかすると、参加者は、みんなの前では発言しない、とか、何か課題を出さないと話さない、活動を形にしていくようにしかけないと動かない、といった、参加者に対する何か見方をファシリテーターがもっているかもしれないとさえ、今思えてきました。
このことは、町づくりファシリテーターなどを考える際に、もう一度、指針にするようにしたいものです。
みなさまはいかが考えますか?