易経に学ぶファシリテーション(11)
■「中する」とはバランスをとること?
前回、ものごとにある陰と陽の識別とその両面性を見る力、大切にすることがファシリテーションには必要であると述べました。議論の中で、勝ちと負けを作るのではなく、それぞれの言い分を聞きながら適切な対処をすることがファシリテーションには大切になるでしょう。その時には、バランスをとる感覚が大切だなあと思われる方が多いのではないでしょうか。AとBの中庸を得るようにすると言ったら良いんでしょうか?この真ん中をとることが易経でいう「中する」ことではないとあっこちゃんは先日の例会で話してくれました。「中する」とは、真ん中をとるようにバランスをとるのではなく、両者のアイデアをしっかり聴き、活かして、新しい次元での解決策を得るようにすることだと話されたのです。確かに!!この「中する」という意味は、ファシリテーターは肝に銘じておくべきでしょう。とても大切な視点だと思います。
そして、その際に、「器量」と「度量」との違いも話されました。「器量」とは、自分のポストをヶ座さずに仕事をやること(陽)です。「度量」とは相手が自分を否定していることも知って、その人の意見を聴き受け容れること(陰)です。この見返りを考えずに譲る、受け容れることができる器が「度量」であり、ファシリテーションを行うファシリテーターに求められていることではないでしょうか。ともすれば、ファシリテーターである立場を保全するために、メンバーに働きかけたり、メンバーの発言を処理したりしてしまっていないか、自問自答する必要がありそうです。
男性は発するだけで、女性はそれを受け容れます。そして化し、生命体を創るのです。発する人は、陰にたよらないと生まれないとも。また実現させるものがないと、陽は陽として存在しないと言ったらいいのかもしれません。
私たち、ファシリテーターは、時として、大地として機能し、時としてその大地を創り出すことを支援する存在になることが大切なのかもしれません。大地として機能する器としてのグループ、それは信頼関係がベースになった相互依存関係であるといってもいいのではないでしょうか。その信頼関係をいかに創り出すか?それは、ファシリテーターだけの仕事ではありません。メンバー間の関係がいかに相互依存関係になるか、それは、ファシリテーターとメンバーとの関係もしかりです。やはりファシリテーターのありようがいつも問われることになるのです。